ダヴィンチの言葉を考察:絵描きが持つ“二次元化のスイッチ”とは?

本日は鏡について考えてみたいです。 

 このスケッチは鏡ではありませんが、水に映る島影や工場の煙突が気に入って描いたものでした。何かしら鏡のように映る光景は美しいものがありますよね、つい描きたくります。


ところでレオナルド・ダ・ヴィンチは

「平らな表面をした鏡はその表面に真の絵画を蔵している。また、平らな物の表面に描かれた完全な絵は鏡の表面に似ている。

 君たち画家よ。君たちに明暗及物(あらゆる物に明暗が及んでいる)の縮図を教える師を鏡の面に知れ」と。

また「何よりも第一に鏡を師とせよ。なぜと言えば、滑らかな鏡の中に物象は多くの点で絵画にあるのと同じように映るからである」と。

たしかに鏡は非常に魅力的な平面です。鏡を見れば、つい誰でも見入ってしまうかもしれません。絵かきなら尚更です。そこには世界が、鏡の外と同じように存在しています。

 しかし、ちょっと待ってください。鏡は「絵画にあるのと同じように映る」でしょうが絵画ではありません。鏡に映るものを絵画であるかのように感じていないと、そうは思えないのです。

 鏡を見て絵を見るのと同じように感じるということは、鏡に映ったものを脳が2次元化して理解しているということなんだろうと。少なくともダヴィンチ先生は鏡の中の世界が二次元的に見えていたということが文章の内容から伺えます。私の経験上、これは、そう簡単なことじゃありません。

 もし最近、絵を描いてみようか?と思い立ち、始めた人がいたとします。おそらく鏡の外も中も同じように見えていると、私は考えています。鏡の中だけ絵のように見えるかというと、そうならないと思うのです。その現象自体は絵画と似ているとしても。

とは言え、ダヴィンチ先生が「鏡を師とせよ」と仰るのも故なきことではありません。

 というのも絵かきという生き物は普段から見える世界を二次元化して捉えています。そうするために意識して脳のスイッチをパチンと切り替えています。そうして初めて鏡の中を絵のように見ることが出来ます。

 その状態では鏡の中ばかりか、見る世界が立体的じゃなくて、奥行きも重さも無い、まさに紙に描いたように見えます。私が絵を描くときにも必要に応じて、そのスイッチを入れたり消したりして描いているわけです。全世界の絵かきの末端に居る私でさえ、そうなのですからダヴィンチ先生にあっては、ごく当たり前のことであると推測できます。

 脳のスイッチを切り替えること、これはダヴィンチ先生や私のような何かしら物を見て描くタイプの絵かきには必須の技術です。対極に「考えて描くタイプの絵かき」というのがおりますが、彼らには必須の技術ではありません。

 「スイッチをオンオフする」こと。具体的には右脳と左脳を切り替える、ということです。脳が左脳主導で働いている時は論理的に物を考え、常識的な人になります。脳が右脳主導になると直感的かつ柔軟な思考状態になります。一般的に多くの人の脳は通常、左脳主導になっていると言われています。


 ダヴィンチ先生の活躍された15、6世紀にはカメラは無かった時代。この頃の至上命題は写真のように、現実を引き移したように描くことであったろう、と思います。

 現代はカメラがあり、パソコンがあり、コピー機があり、何でも鏡のように簡単に表現できちゃう時代です。それが普通に誰でも、原理は理解していないにしても、それなりに表現できる時代。

さて、その次にはというと、やっぱり絵画の歴史をたどるように変化するんでしょう。
もし、現代にダヴィンチ先生がいらしたら「鏡を師とせよ」とは言わないだろうと思われます。あの時代であるから良いのだよね。

 現代では絵画も彫刻も何もかもが渾然一体となった表現が普通になりました。何でも有り、ということです。

 そうなってくると、もう自分も何をどうやって良いのやら分からなくなってまいります。それでも何とか頑張って行こうと思ってますが、まぁ、むつかしい時代です。何をやっても価値が無いように思えちゃって。

今の時代、活躍出来る人って凄いなぁと思っちゃいます。
 

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